自分語りの部屋

アラフィフ♀です。

他人に迷惑をかけることは、病むことの本体の一部

私は、激鬱のときには、仕事は全部キャンセルするしかなかった。
同僚と部下に任せた。

みな、自分の計画を台なしにしたことだろう。
本当に申し訳のないことだった。

他人に迷惑をかけること、
それは病むことの本体の一部である。
それは他人にとって迷惑であるだけでなく、
迷惑をかけてしまったと申し訳なく思う
自分の思いからくる苦痛である。

 

それは、実はお互い様であって、
私はそれまで、
だれかが何かの事情で仕事ができないとあれば、
ひと肌脱いでその場をしのぐという役目を
たくさんこなしていたと思う。

 

そんな私にとって、
病むことの本体の一部にさらされることは、
苦痛だった。
そして、今思い返すと、
新鮮な体験だった。

 

まず私は、
新しい自分のイメージを受け入れなければならなかった。
そのことは、この後何度も押し寄せるうつの波が
私に強く強く知らしめた。

 

そのことがしっかり身に染みた今、
私は、元気いっぱいに、
私が休んだら職場が回らない!と思っていた昔の自分が、
とても不遜に思えたりする。
「責任感」というよさげな言葉で装飾されているだけだ。
自分にできることなど、
実は限られているのだ。
自分がいなければ職場が回らないなど、
そんなことは決してない。
私はが世界の中心ではないのと同じだ。
自分の代わりは、実はいくらでもいる。

ただ、私が元気なうちは、
「いくらでもいる」人たちは、
元気いっぱいの私に任せて
頭角を現せずにいるだけなのだ。

 

自分が職場に、世の中の一部にでも、
なにか影響を及ぼしているなどと考えている、
その思いが、
不遜な思いの底辺にある。
そんな力は、そもそもない。

 

 

うつ状態~生きている意味がわからない

私には、生きている意味がなかった。
少なくとも、そう感じた。

何もかもが億劫だった。
何にも興味がわかなかった。
生きていても、何の楽しみもなかった。
意味のない生だと思った。

しかし、私には死ぬことは許されていない。
父があのような形で死に、
遺族がどのような苦しみを負うかを
私は身を持って知っているのだ。
知っているのに自分が父と同様に死んだら
また同じことが起こってしまう。

そういう意味で、死ぬわけにはいかなかった。
積極的に生きたかったわけではない。

ただ、漠然と、この世からいなくなってしまいたいと
思っていた。
それはいわゆる希死念慮というほどでもなかったと思う。
ただ、もう生きているのが苦痛だから、
この生はなかったことになってくれないかな、というもの。

加藤和彦が自殺したとき残した遺書に、
「どうか、お願いだから騒がないで頂きたいし、
詮索もしないで欲しい。
ただ、消えたいだけなのだから・・・」とあったそうだ。

その思いがわかる。
世間を騒がせ、死ぬことによる迷惑についてはわかっている。
でも、お願い、もうだめだ。ゆるしてほしい。
静かに逝かせてくれ。
そういう意味だろう。

 

主治医は、うつによる不安ががどうしようもない時に、
アナフラニールの点滴を何度も行ったが、
全然、まったく、効果なかった。
で、なぜかよく効いたのは
アモキサンの服用だった。
精神障害とは本当によくわからないものだ。

 

 

 

あたりだったのか不明 抗うつ剤による治療

週末明けの月曜日、
病院に駆け込んだ私は、
デパゲンを飲みきること、と言われ、
それと同時に、抗うつ剤を飲み始めた。
トフラニール
オレンジ色で三角の錠剤。
可愛いけど、副作用はかわいくなかった。
やたら口が渇くのだ。
初めて飲んだ抗うつ剤だった。
副作用が強いのに、
薬はどんどん増やされた。

食欲ゼロ。
食べることが大好きだったのに、
食べられない。
家族が、私が好きなものやさっぱりしたものを
準備してくれたりしたが、
だめなものはだめだった。


ヒステリー球も経験した。
のどの下付近に、空気の玉が入っているような感覚。
そこが詰まっているから、
細いそばでも通らない、みたいな感覚である。
立ちくらみもこの後ずっと続いた。
立っていられない。
したがって、寝たきり。
ひと夏、寝て過ごした。

焦燥感、不安感。
そして、体が動かない。
まるでコールタールの海を泳いでいるよう。
ひどい動悸。
全身に心臓の鼓動が響くような感じ。
なんなんだ、これは!?


父が死んだときの鬱状態とも違っていた。

私にはまだ精神症状の経験値がなかった。

まるで炎天下の海で何時間も泳いだあとのように
体が疲れて動けなくなったり。


さらに、その後何年も、
少し上向いたかと思うと、
また次のうつ症状やってくるというが調子で
長く苦しみ続けたのだが、
その症状は実に多様で、様々だった。
ものの本には、
「ありとあらゆる症状が、うつの症状でありうる」
などと書かれていた。
本当に、その通りだと思う。
新しい症状に出くわすたびに、
「なにこれ!?」と思うのだけれど。

毎度毎度、うつ症状が顕在化するたびに、
世の中には、
こんなに辛いこともあるんだなぁと
いちいち思った。

経験してない症状だから、
何が起こっているのかよくわからないのだ。
うつが始まってその初期症状が現れたとき、
自分では「これはヤバいのではないか」と思って、
主治医に説明したりもするのだが、
主治医の方でも、???となることが多かった。
こんだけ経験のある医者でも、そうなんだから、
私なんぞにわかるわけなかった。

毎度のことながら、
これを乗り越えたんだから、
次は驚かないぞ、とか、
次は、あのとき経験した初期症状が出たら
すぐに対応してもらうぞ、とか、
この時期にはこうなるから、
あらかじめ医者に言っておこう、とか思うのだが、
そういうの、ほとんど意味がなかった。

だんだんと経験値が増すにつれて、
わかるようになってきたけれど。


目の前をチカチカと星が飛んでいるのに、
どうしても研修会の司会をしなければならないことがあり、
(これも、「できません、交代してください」と主張すべきだったと今は思う)
キラキラの星とともに司会業をこなし、
参加者がセッションしている間は
トイレにこもってさぼるなどということをして
なんとか乗り切った。

あるときには、
そわそわして、敏感な感じが苦痛だった。
心にどこか違和感がある。
胸がバクバクする。食欲低下。下痢。
眠れない。
睡眠薬を3種類処方されたこともあったが、
だめなものはだめだった。

 

もちろん、鬱々とした気持ちというのは
常にあった。
以前触れたので繰り返さないが、
父の死を思い出すと、
もうパニックだった。

 

あるときには、最強の不安に襲われた。
不安で不安で、いてもたってもいられない。
過呼吸で息苦しくなる。
パニック発作である。
その挙句、眠ってしまう。
この症状について、医者は、
「脳の防衛反応」と説明した。
不安で生きていけそうもないほどになると、
生き抜くために、脳は眠くするんだとか。

もう、そこまでして、生きていたくもないよ、
と言いたかった。

 

 

うつ病時代?の始まり

2月に始まったひどい躁鬱混合状態と思われる時期が過ぎ、

落ち着いてきたころ、

主治医が「そろそろよし。差し迫った感じもなくなった」

と言った。

私は徐々に仕事に復帰し始めた。

6月下旬だった。

 

治まったとはいえ、

主治医は、

「まだまだ用心だ!このままうつに落ちたら大変だ!

ステロイドというのは、恐ろしいんだぞ!」

と言った。

へぇ、そうなんだ。

確かに恐ろしい経験をしたけど、

もう治まったじゃん、と思っていた私は、

改めてちゃんと治療しようと思い、

薬を飲んでいればきっと大丈夫、

そう思っていた。

 

しかし、7月下旬、

大切なイベントを実行しなければならなかった土曜日、

私はいきなり、

経験したことのない焦燥感に襲われた。

どんなにつらくとも、

その場を去ることはあり得ないことだった。

・・・今思えば、

誰かに放り投げて私は病院に行っても

よかったのだと思うが、

当時はまだ、精神障碍者としての心構え?が

まだなかった。

 

病院は、土曜日はどうしても午前中しか診てくれないという。

イベント終了は昼過ぎだ。

運命だとあきらめた私は、

いてもたってもいられない焦燥感の中、

人々の前に立ち続けた。

 

根性を試すには良い経験だったけど。

 

これが本格的なうつ病?時代の始まりだった。

?のつくのは、

実際にはうつ病ではなかったからなのだが。

もう一段根深い病だった。

 

ステロイドパルス後 精神症状②

精神科を訪れると、精神科医は、
私のバセドウ病のことをどこかから訊いていたらしく、
「足の痛みがバセドウ病の前駆症状だったことを見逃してしまった、
申し訳なかった」と語った。
私は、そんなことを向こうから言われることに
少し驚きつつも、
「・・・そういうわけで、バセドウ病だったわけですが、
その後目がおかしくなりまして。
ステロイドパルスを受けたら、
なんだか知らないけど、めちゃくちゃなことになりまして」
と話し始めた。

精神科医は、話の内容とともに、
そのように話す私の様子にも
大いに注目していたようで、
あとで、この症状がいったん落ち着いたときに、
「差し迫った感じが減りましたね」と言っている。

 

このとき精神科医は、
私の症状を、躁と鬱が一緒になって表れたようなもの、と
説明した。
今なら、「躁鬱混合状態」とか思うが、
私はそのような言葉に対する知識がなかったため、
「躁みたいなうつみたいな状態、でもどっちでもない」と理解した。
まあ、これが間違いだったのだろうけど。

 

心と体が完全に狂っていた。
でも、心と体が一緒だったため、
心に対する関心も半減してしまっていたかもしれない。

いや、心が狂っていたから、
思考そのものが狂っていたのだろう。

 

この受診で処方された薬が私に副作用をきたし、
心臓に負担が出てしまったため、
病院に電話をかけて問い合わせた。
すると、その薬は飲まないで、と指示された。
思えばそのあとすぐに受診して、
別の薬を処方してもらうべきだったのだろうが、
そこまでする必要はなかったように思ったり、
電話でそのような指示もなかったし、ということで、
次の受診まで私は待ってしまった。

 

次の受診までの間に、父の1周忌があり、
私の精神状態はボロボロになってしまった。

明らかに、普通の1周忌に見せる遺族の状態では
なかったのだろう、
みな私への対応に不安や戸惑いを覚えていたようだった。


当時、ちょうど冬季オリンピックをしていた。
私はオリンピックを見ることはできなかった。
プロスポーツとは違って、
その時の勝負がすべて。
選手が本番のときに発揮するあの集中力、
テンパってるあの感じ、
アドレナリンが大爆発した興奮状態みたいなもの、
それがわかりすぎてしまう。
想像力が大爆発し、
その想像に自分が耐えられない。
辛すぎた。
でも、気になる。
そんな矛盾の中でどうしようもなくなってしまっていた。


そのせいか、
一応のコントロールが出来てる今でも、
オリンピック他、1回勝負のスポーツは少し苦手だ。

 

当時の私は、
入院によって休職してしまったのだから、
職場に少しでも迷惑をかけないように必死だったというところなのだが、
実はそのような異常なまでのやる気に満ちていたのは
躁状態のせいだった。

 

今になって考えれば、絶対無理、グロッキーです、となるはず。
しかし、上司に強制的に休職せよと言い渡されなければ

結局、心配した同僚が精神科医に掛け合い、
上司が精神科医を訪れる場を作り、
私を休職させるべきだという話をつけてくれたようだ。

しかし、私はこのことに激怒した。
これだけ一生懸命職場のために努力しているのに、
休職せよとはなんだ!
しかも、時期は年度末、
新年度に私のポストはないも同然ではないか!!
といった調子。

 

それにしても。
理路整然と医師から「休むべきだ」と勧められれば、
私は従ったと思う。
その程度の理性は、残っていたはずだ。
身体症状がすさまじかったわけだし。
しかし医師がそれをしなかったのは、
躁状態にある患者に何を言っても無駄、みたいな、
そういうあきらめというか、
相手にしても無駄だという姿勢があったことを感じる。
躁状態というのは、
それほどに恐ろしい状態として
認識されているのだろう。

 

 

 

ステロイドパルス後 精神症状①

前回のブログから間が開いてしまった。

躁状態の自分の状態を整理するというのは、
思っていた以上に時間がかかった気がする。
躁状態とは、本当に手が付けられない。

 

前回のブログは身体症状について述べたものだった。
でも、少し精神症状についても触れている。

例えば、「寝てなどいられないのだ」
「目を閉じているのが一番楽だったが、そうはさせない自分がいた」
「痛みを自覚しないというのはおかしいが、
痛みを自覚するセンサーというか、
考える脳というかが狂っているという感じだった。」
といったものである。

前回と前々回のブログにあるように、
苛烈な身体症状に襲われていたのに、
私は寝てなどいなかった。
フラフラであちこちぶつけて小さな怪我をしながら、
私はどうしても仕事に出かけ、
動悸と下痢とめまい、その他さまざまな症状にに苦しみながら
仕事にならないのに必死でできる仕事を探していた。

 

車で言ったら、GOな私がローギアでものすごい爆音立てて、
ブレーキ踏みながら走っているようなものだった。
どんなに辛くても出勤するという選択肢しか、私にはなかった。

 

また、私は自分の身の回りに起きる
様々な事象に敏感に反応していた。
よくも悪くも感受性が高まり、
そこから生み出される感情・言葉を発散せずにはいられなかった。
優れた芸術作品は、
あの状態の私には危険なものだった。
しかしそんな知識は、当時の私にはない。
私は文学や歌などに狂わんばかりに反応してしまった。

例えば、たまたま片付けようと手に取った古新聞に載っていた俳句と、
その解説。
解説があまりにも陳腐で的外れでつまらないものであるかを
瞬時に察知した私は、
自分の解釈を文字にして書きつけた。

他の例。
たまたまテレビで聞いた歌が気になり、
英語の歌詞の意味を調べてみると、
それは非常に隠喩の効いた、
意味深なものだった。
そこからいろいろな思いが吹き出し
収めるのが大変だった。

私は文字にしてその思いを吐き出さずにはいられなかった。
今になってそれを読み返してみると、
作家や芸術家というのは、
このような状態を恒久的に持っているのかもしれない、
などと思ったりする。

 

私は、人が放つちょっとした言葉に
突っ込みを入れずにはいられなかった。
そして頭が切れまくり、
事象の裏の裏、そのまた裏まで考えてしまう。

あのとき、舛添元厚生労働大臣島田紳助がテレビをにぎわしていたが、
当時私は自分を、この二人を足して2で割って、
すっごくマヌケにした状態だ、と評した。

 

自分にも、他人にも、突っ込みまくるような。
こころが?キレまくるような。
用心しないと人を傷つけてしまう。
いや、だいぶやっちゃってた。

 

小さなことばが気になり、
いつもだったら適当に流して終わるようなことにいちいち反応してしまう。
例えば誰かが軽い気持ちで私に何かを言うと、
「この場面でそういう発言をするっていうのは、
どういう心境とか、
どういう意図とかがあって、言うんでしょ、そうでしょう!!」
といったような。

 

一番の被害者は、やはり家族であろう。
家族に足を向けて寝られない気が今もしているのは、
あの当時、あきれながらも
私に耐え抜いてくれたからである。


この状態を、今だったら「躁状態」と言う言葉で
理解することができるが、
当時の私にはそのような知識はなかった。
また、だれも教えてくれなかったんじゃないかと思う。

しかし、絶対に精神が正常ではないという自覚はあったので、
自ら精神科を受診している。
父が死んだあと、うつ状態になったときに訪れた病院だった。

 

 

ステロイドパルス後 身体症状②

ステロイドパルス療法を1月に受けたその年の暮れ、
私はこのように記している。

「今年一年は・・・、ステロイドとの戦い。
 私の主観としては、冷静な自分とアタマがへんな自分との対決。
 心の荒野とでもいうか、幻の嵐の中でうろうろしてた。」

 

「アタマが変」とはつまり、
本格的に精神科にかかり始めたことを意味する。

でもその前に、身体症状について、

まとめておきたい。

 

前回のブログを書いてから、
ステロイド後のことをまとめようと思っていたのだが、
当時の様子があまりに激烈で、
あれこれの記録を読み返すと、
どうまとめてよいのやら、
困るほどだった。

でも、やってみよう。

 

初めに変だな、と思ったのは、
体が斜めに傾いているような感じがすることだった。
平衡感覚が狂ってしまったのだろうか。
それは3か月ほど続いたと思う。
その症状を皮切りに、体から力が抜けるような症状が始まった。
体力をいつも消耗していて、ひどい下痢が続いた。
だるく、いつもめまいがした。

それと、なぜか口の中に苦みを感じた。
これはすぐに消失したけれど。

寒くて寒くて、たまらなかった。
暖房機の前で、着ぶくれして座っているしかなかった。
少しでも体を動かすと、うっすら汗をかく。
すると、その汗で体が冷える。
そうなると、ますます寒くなってしまう。
体温調節の機能がすっかり狂っているようだった。


体が鉛のように重かった。
「重力にはかなわない」と私は記している。
寝ているとき、関節がカクンと引力に惹かれる感じがした。
関節が外れるのではなく、
関節の中で、骨が落ちるような、不気味な感覚だった。
膝や腰がいつも痛かった。

階段が辛いのは当然で、
ロッククライミングの三点支持を思い出しながら登っていた。

足の裏から何かがムンムン上がってくる感覚があって、
疲れてくるとそれがものすごく強まった。
息も上がってはあはあ言っていた。

体を縦にしているのが辛いので、
私はこたつに座椅子を差し込んで、
携帯パラマウントベッドだ、などと言っていた。
布団に寝ていればいいのに、
私の中にはそういう発想がまったくなかった。
寝てなどいられないのだ。
(これは精神症状である。また後程記す)

薬を処方してもらったが、
下痢はまったく収まらなかった。
この症状に「はらいた攻撃」と名付けた。
私をあとからあとから攻撃して、止まなかった。

だんだん辛くなってきたのは、知覚過敏だった。
冷たいものだけではない。
室温程度のものでも沁みる。
いや、何も口に入れていなくても、すでに沁みているという状態。
空気の温度がすでに沁みる。
風呂上りなどにはさすがに冷たいものが飲みたくなる。
でも、歯が辛いのでとても飲めない。
しかし、ストローで歯に水が沁みないように飲めば
飲むことができた。
とにかく、歯というか、全身の骨が、狂っていた。
「ホルモン治療で体全体が緩み、それであちこちに痛みが生じる」
とは整形外科医の説明である。

当然ながら、食欲も落ちた。

ものを取ろうとしても、取り落としてしまう。
お店で手渡す小銭を、渡す前に落としてしまう。
口に入れたはずの食べ物が口から落ちる。
呑み込むのに失敗してむせる。
粉薬だと、悲惨なことに。
不意に唾液でむせたりすることも。
嚥下機能さえ落ちたのだろう。

職場で食べる弁当が冷たくて食べられないので、
温かい飲み物で口の中の温度を中和させながら、
なんとか食べていた。
とはいっても、飲み物を入れたカップを持つことができず、
両手でなんとか支えていた。

私の顔を見た弟は
「ほっぺたに綿詰めたみてぇだ!」と遠慮なく言った。
ムーンフェイスというやつだ。
吐き気にも悩まされた。

動悸、息切れ。
動悸は、通常の倍ほどにもなっていた。
その動悸が体中に響くような感じがして、
寝ていても、床を揺らすような感覚がしていた。
動悸が体中に響き、こうなると手が震えて、字は書けなかった。
当時の記録を文字で残しているのは、
キーボードのおかげである。

ステロイドの副作用は、出たとこ勝負、出たとこがまん、出たとこ大騒ぎ。

ステロイド後、体が一気に年寄りになってしまったかのようだった。

それから、これはステロイドではなく、
放射線治療のリニアックから来ているものだったかもしれないが、
目が非常に辛かった。
目を閉じているのが一番楽だったが、
そうはさせない自分がいた。(精神症状)
次に楽なのは、正面視のまま動かないこと。
携帯パラマウントベッド状態で
パソコンをこたつに乗っけて
あちこちのサイトを見ていた私は、
どうにか体を斜めにしたまま正面視できるように
非常に奇妙な状態でこたつに座っていた。

放射線治療が進むにつれて、実は痛みが発生していたが、
少しずつ、粛々と来たので、
自覚するのに時間がかかった。
何しろ他の心身の症状が体の中で台風になっていたから。

全部で10回だった放射線が、半分を過ぎた頃から、
痛みが出てたんだろう。
いよいよ放射線が終わる頃に、
ひょっとしてこれって、目が辛いのか?と自覚した。
痛みを自覚しないというのはおかしいが、
痛みを自覚するセンサーというか、考える脳というかが
狂っているという感じだった。

これも、精神症状である。