自分語りの部屋

アラフィフ♀です。

ステロイドパルス後 精神症状②

精神科を訪れると、精神科医は、
私のバセドウ病のことをどこかから訊いていたらしく、
「足の痛みがバセドウ病の前駆症状だったことを見逃してしまった、
申し訳なかった」と語った。
私は、そんなことを向こうから言われることに
少し驚きつつも、
「・・・そういうわけで、バセドウ病だったわけですが、
その後目がおかしくなりまして。
ステロイドパルスを受けたら、
なんだか知らないけど、めちゃくちゃなことになりまして」
と話し始めた。

精神科医は、話の内容とともに、
そのように話す私の様子にも
大いに注目していたようで、
あとで、この症状がいったん落ち着いたときに、
「差し迫った感じが減りましたね」と言っている。

 

このとき精神科医は、
私の症状を、躁と鬱が一緒になって表れたようなもの、と
説明した。
今なら、「躁鬱混合状態」とか思うが、
私はそのような言葉に対する知識がなかったため、
「躁みたいなうつみたいな状態、でもどっちでもない」と理解した。
まあ、これが間違いだったのだろうけど。

 

心と体が完全に狂っていた。
でも、心と体が一緒だったため、
心に対する関心も半減してしまっていたかもしれない。

いや、心が狂っていたから、
思考そのものが狂っていたのだろう。

 

この受診で処方された薬が私に副作用をきたし、
心臓に負担が出てしまったため、
病院に電話をかけて問い合わせた。
すると、その薬は飲まないで、と指示された。
思えばそのあとすぐに受診して、
別の薬を処方してもらうべきだったのだろうが、
そこまでする必要はなかったように思ったり、
電話でそのような指示もなかったし、ということで、
次の受診まで私は待ってしまった。

 

次の受診までの間に、父の1周忌があり、
私の精神状態はボロボロになってしまった。

明らかに、普通の1周忌に見せる遺族の状態では
なかったのだろう、
みな私への対応に不安や戸惑いを覚えていたようだった。


当時、ちょうど冬季オリンピックをしていた。
私はオリンピックを見ることはできなかった。
プロスポーツとは違って、
その時の勝負がすべて。
選手が本番のときに発揮するあの集中力、
テンパってるあの感じ、
アドレナリンが大爆発した興奮状態みたいなもの、
それがわかりすぎてしまう。
想像力が大爆発し、
その想像に自分が耐えられない。
辛すぎた。
でも、気になる。
そんな矛盾の中でどうしようもなくなってしまっていた。


そのせいか、
一応のコントロールが出来てる今でも、
オリンピック他、1回勝負のスポーツは少し苦手だ。

 

当時の私は、
入院によって休職してしまったのだから、
職場に少しでも迷惑をかけないように必死だったというところなのだが、
実はそのような異常なまでのやる気に満ちていたのは
躁状態のせいだった。

 

今になって考えれば、絶対無理、グロッキーです、となるはず。
しかし、上司に強制的に休職せよと言い渡されなければ

結局、心配した同僚が精神科医に掛け合い、
上司が精神科医を訪れる場を作り、
私を休職させるべきだという話をつけてくれたようだ。

しかし、私はこのことに激怒した。
これだけ一生懸命職場のために努力しているのに、
休職せよとはなんだ!
しかも、時期は年度末、
新年度に私のポストはないも同然ではないか!!
といった調子。

 

それにしても。
理路整然と医師から「休むべきだ」と勧められれば、
私は従ったと思う。
その程度の理性は、残っていたはずだ。
身体症状がすさまじかったわけだし。
しかし医師がそれをしなかったのは、
躁状態にある患者に何を言っても無駄、みたいな、
そういうあきらめというか、
相手にしても無駄だという姿勢があったことを感じる。
躁状態というのは、
それほどに恐ろしい状態として
認識されているのだろう。

 

 

 

ステロイドパルス後 精神症状①

前回のブログから間が開いてしまった。

躁状態の自分の状態を整理するというのは、
思っていた以上に時間がかかった気がする。
躁状態とは、本当に手が付けられない。

 

前回のブログは身体症状について述べたものだった。
でも、少し精神症状についても触れている。

例えば、「寝てなどいられないのだ」
「目を閉じているのが一番楽だったが、そうはさせない自分がいた」
「痛みを自覚しないというのはおかしいが、
痛みを自覚するセンサーというか、
考える脳というかが狂っているという感じだった。」
といったものである。

前回と前々回のブログにあるように、
苛烈な身体症状に襲われていたのに、
私は寝てなどいなかった。
フラフラであちこちぶつけて小さな怪我をしながら、
私はどうしても仕事に出かけ、
動悸と下痢とめまい、その他さまざまな症状にに苦しみながら
仕事にならないのに必死でできる仕事を探していた。

 

車で言ったら、GOな私がローギアでものすごい爆音立てて、
ブレーキ踏みながら走っているようなものだった。
どんなに辛くても出勤するという選択肢しか、私にはなかった。

 

また、私は自分の身の回りに起きる
様々な事象に敏感に反応していた。
よくも悪くも感受性が高まり、
そこから生み出される感情・言葉を発散せずにはいられなかった。
優れた芸術作品は、
あの状態の私には危険なものだった。
しかしそんな知識は、当時の私にはない。
私は文学や歌などに狂わんばかりに反応してしまった。

例えば、たまたま片付けようと手に取った古新聞に載っていた俳句と、
その解説。
解説があまりにも陳腐で的外れでつまらないものであるかを
瞬時に察知した私は、
自分の解釈を文字にして書きつけた。

他の例。
たまたまテレビで聞いた歌が気になり、
英語の歌詞の意味を調べてみると、
それは非常に隠喩の効いた、
意味深なものだった。
そこからいろいろな思いが吹き出し
収めるのが大変だった。

私は文字にしてその思いを吐き出さずにはいられなかった。
今になってそれを読み返してみると、
作家や芸術家というのは、
このような状態を恒久的に持っているのかもしれない、
などと思ったりする。

 

私は、人が放つちょっとした言葉に
突っ込みを入れずにはいられなかった。
そして頭が切れまくり、
事象の裏の裏、そのまた裏まで考えてしまう。

あのとき、舛添元厚生労働大臣島田紳助がテレビをにぎわしていたが、
当時私は自分を、この二人を足して2で割って、
すっごくマヌケにした状態だ、と評した。

 

自分にも、他人にも、突っ込みまくるような。
こころが?キレまくるような。
用心しないと人を傷つけてしまう。
いや、だいぶやっちゃってた。

 

小さなことばが気になり、
いつもだったら適当に流して終わるようなことにいちいち反応してしまう。
例えば誰かが軽い気持ちで私に何かを言うと、
「この場面でそういう発言をするっていうのは、
どういう心境とか、
どういう意図とかがあって、言うんでしょ、そうでしょう!!」
といったような。

 

一番の被害者は、やはり家族であろう。
家族に足を向けて寝られない気が今もしているのは、
あの当時、あきれながらも
私に耐え抜いてくれたからである。


この状態を、今だったら「躁状態」と言う言葉で
理解することができるが、
当時の私にはそのような知識はなかった。
また、だれも教えてくれなかったんじゃないかと思う。

しかし、絶対に精神が正常ではないという自覚はあったので、
自ら精神科を受診している。
父が死んだあと、うつ状態になったときに訪れた病院だった。

 

 

ステロイドパルス後 身体症状②

ステロイドパルス療法を1月に受けたその年の暮れ、
私はこのように記している。

「今年一年は・・・、ステロイドとの戦い。
 私の主観としては、冷静な自分とアタマがへんな自分との対決。
 心の荒野とでもいうか、幻の嵐の中でうろうろしてた。」

 

「アタマが変」とはつまり、
本格的に精神科にかかり始めたことを意味する。

でもその前に、身体症状について、

まとめておきたい。

 

前回のブログを書いてから、
ステロイド後のことをまとめようと思っていたのだが、
当時の様子があまりに激烈で、
あれこれの記録を読み返すと、
どうまとめてよいのやら、
困るほどだった。

でも、やってみよう。

 

初めに変だな、と思ったのは、
体が斜めに傾いているような感じがすることだった。
平衡感覚が狂ってしまったのだろうか。
それは3か月ほど続いたと思う。
その症状を皮切りに、体から力が抜けるような症状が始まった。
体力をいつも消耗していて、ひどい下痢が続いた。
だるく、いつもめまいがした。

それと、なぜか口の中に苦みを感じた。
これはすぐに消失したけれど。

寒くて寒くて、たまらなかった。
暖房機の前で、着ぶくれして座っているしかなかった。
少しでも体を動かすと、うっすら汗をかく。
すると、その汗で体が冷える。
そうなると、ますます寒くなってしまう。
体温調節の機能がすっかり狂っているようだった。


体が鉛のように重かった。
「重力にはかなわない」と私は記している。
寝ているとき、関節がカクンと引力に惹かれる感じがした。
関節が外れるのではなく、
関節の中で、骨が落ちるような、不気味な感覚だった。
膝や腰がいつも痛かった。

階段が辛いのは当然で、
ロッククライミングの三点支持を思い出しながら登っていた。

足の裏から何かがムンムン上がってくる感覚があって、
疲れてくるとそれがものすごく強まった。
息も上がってはあはあ言っていた。

体を縦にしているのが辛いので、
私はこたつに座椅子を差し込んで、
携帯パラマウントベッドだ、などと言っていた。
布団に寝ていればいいのに、
私の中にはそういう発想がまったくなかった。
寝てなどいられないのだ。
(これは精神症状である。また後程記す)

薬を処方してもらったが、
下痢はまったく収まらなかった。
この症状に「はらいた攻撃」と名付けた。
私をあとからあとから攻撃して、止まなかった。

だんだん辛くなってきたのは、知覚過敏だった。
冷たいものだけではない。
室温程度のものでも沁みる。
いや、何も口に入れていなくても、すでに沁みているという状態。
空気の温度がすでに沁みる。
風呂上りなどにはさすがに冷たいものが飲みたくなる。
でも、歯が辛いのでとても飲めない。
しかし、ストローで歯に水が沁みないように飲めば
飲むことができた。
とにかく、歯というか、全身の骨が、狂っていた。
「ホルモン治療で体全体が緩み、それであちこちに痛みが生じる」
とは整形外科医の説明である。

当然ながら、食欲も落ちた。

ものを取ろうとしても、取り落としてしまう。
お店で手渡す小銭を、渡す前に落としてしまう。
口に入れたはずの食べ物が口から落ちる。
呑み込むのに失敗してむせる。
粉薬だと、悲惨なことに。
不意に唾液でむせたりすることも。
嚥下機能さえ落ちたのだろう。

職場で食べる弁当が冷たくて食べられないので、
温かい飲み物で口の中の温度を中和させながら、
なんとか食べていた。
とはいっても、飲み物を入れたカップを持つことができず、
両手でなんとか支えていた。

私の顔を見た弟は
「ほっぺたに綿詰めたみてぇだ!」と遠慮なく言った。
ムーンフェイスというやつだ。
吐き気にも悩まされた。

動悸、息切れ。
動悸は、通常の倍ほどにもなっていた。
その動悸が体中に響くような感じがして、
寝ていても、床を揺らすような感覚がしていた。
動悸が体中に響き、こうなると手が震えて、字は書けなかった。
当時の記録を文字で残しているのは、
キーボードのおかげである。

ステロイドの副作用は、出たとこ勝負、出たとこがまん、出たとこ大騒ぎ。

ステロイド後、体が一気に年寄りになってしまったかのようだった。

それから、これはステロイドではなく、
放射線治療のリニアックから来ているものだったかもしれないが、
目が非常に辛かった。
目を閉じているのが一番楽だったが、
そうはさせない自分がいた。(精神症状)
次に楽なのは、正面視のまま動かないこと。
携帯パラマウントベッド状態で
パソコンをこたつに乗っけて
あちこちのサイトを見ていた私は、
どうにか体を斜めにしたまま正面視できるように
非常に奇妙な状態でこたつに座っていた。

放射線治療が進むにつれて、実は痛みが発生していたが、
少しずつ、粛々と来たので、
自覚するのに時間がかかった。
何しろ他の心身の症状が体の中で台風になっていたから。

全部で10回だった放射線が、半分を過ぎた頃から、
痛みが出てたんだろう。
いよいよ放射線が終わる頃に、
ひょっとしてこれって、目が辛いのか?と自覚した。
痛みを自覚しないというのはおかしいが、
痛みを自覚するセンサーというか、考える脳というかが
狂っているという感じだった。

これも、精神症状である。

 

ステロイドパルス後 身体症状①

退院後、

仕事を再開しつつ、

ステロイドの錠剤を飲んで脱ステロイドを図りながら、

放射線治療を行った。

放射線は、たしか2週間ほどだっただろうか。

 

そのころから、体がおかしくなってきた。

それは、放射線ではなく、

ステロイドによるものだと、あとで気づいた。

 

まず、体中の筋肉がなくなってしまったような感覚。

実際、ステロイドパルスで筋力が落ちるのだ。

車を運転すると、

ハンドルを切ったつもりが、

切れていない。

車線変更したつもりが、できていない、

などと言うことが頻発した。

普通に歩いていても、

手足がぶらぶらして、あちこちにぶつけた。

だるくて座ってもいられない。

体中の骨が痛い。

 

 

私は仕方なく、杖を買って、

人が見ていないところでは使用した。

人が私を見ると、とても嫌な顔をするから。

はた目には、それほど具合が悪そうには見えないらしい。

 

病院の中では、車いすを使用した。

足は楽だが、車いすを漕ぐ手は痛いので、

ゆっくりゆっくり進んでいた。

 

病院というところは、

病人らしくしていても、だれも咎めないところだから、

気が楽だった。

 

ステロイド骨粗鬆症などにもなりやすいので、

検査を受けたりした。

 

あの状態なら、当然休職すべきだと思うが、

あの時の私には、休職という文字がなかったとしか

いいようがない。

 

なにも仕事が出来ていない状態なのに、

とにかく出勤。

でも私の仕事は半分は肉体労働なので、

とても無理。

座ってできる仕事を選んで行った。

 

 

本当に各種の身体症状が辛かったが、

しかし、本当にまずいのは

精神症状の方だった。

 

 

 

 

入院してステロイドパルス療法

入院して受けた治療は

ステロイドパルス療法」という。

化学療法の一種で、

ステロイド剤を大量に一度に点滴でぶち込み、

それをぱっとやめる。

ぶち込む・やめるを繰り返すので、

鼓動に例えて「パルス」と言うらしい。

 

ステロイドはもともと副作用が強いことで有名だが、

それを大量に使うのでリスクを伴う。

そのため、個室に入院し、状態をモニターしてもらいながら

治療を進める。

 

入院前に、A4のプリントにぎっしり書かれた副作用リストを渡され、

それでもいいですよ、という旨のサインをする。

 

リストの中に、

「精神病」というのがあったが、

私は、まあ鬱とかだったら

経験があるし、すぐわかるから、

ちゃんと対応すれば大丈夫、と思った。

それよりも、大腿骨骨頭壊死とか、糖尿病、

ムーンフェイスなど、

重大なものとか、見た目に現れるものとかがたくさんあり、

それが気になった。

 

かくして入院スタート。

実際、看護師が毎日何度もチェックするのは

血糖値だった。

血糖値は確かに高くなってしまっていたが、

パルス中はある程度仕方がない、という範疇だったと思う。

 

なんだか私は機嫌がよかった。

感染症のリスクがあるという理由で、

医者が私を個室に入れたし、

治療は点滴だけだから、

寝ていればよい。

日々のどたばた仕事からも解放され、

病院の個室から窓を眺めていればよい。

それに うつになんて、全然ならない。

 

2週間の入院の最後の方には

大部屋に移されたが、

「あなたなら、大丈夫かと思って」と、

小さな子どもがいる部屋に入れられた。

子どもは泣いたり不安定になったり

面倒なのだ。

とにかく私は機嫌がよかったから、

何か困っている子どもがいたら、

はいはい、と喜んで助ける、

そんな状態だった。

 

それに、治療は功を奏して、

眼の炎症は見事に収まった。

バセドウ眼症もぐらを退治したぞ。

 

バセドウ眼症の治療の始まり

目の治療の話が続く。

私の場合は、これが精神病の始まりをもたらしたので、

関係ないようだけど、関係ある。

 

さて、前回の続き。

 

医者には仕方がないといわれても、

これでは生活にならない。

 

本やネットで調べると、

ちゃんと治療法があるではないか。

 

そこで今度は眼科を受診した。

眼科医は、通り一遍の目の検査をして、

バセドウ病?ま~、目が腫れるのはしかたないね」

と、内科医と同じことを言った。

 あれ?眼科も相手にしてくれない。

 

しかし、調べれば調べるほど、

バセドウ眼症は、

放置すると大変なことになってしまうらしい。

実際、痛くてたまらない。

仕方がないので、

私は自分で病気について調べた。

やはりこのままではだめだ。

仕方なく、紹介状もないままで

市立病院・大学病院などを受診。

MRIなどを撮った病院もあったが、

積極的な治療には結びつけてもらえなかった。

 

ここでわかった。

田舎なんだ。ここは。

眼科医といえば、眼球の医者ばかりで、

目の周りの組織については無頓着。

医者よりも患者の方が、病気に詳しいんだ。

 

あきらめムードで居たある日、

本屋で立ち読みしたバセドウ病の本の巻末に、

専門医一覧なるものがあった。

いろんな本の巻末に、よく載っている内容。

でも、初めてそこに、私が住んでいる地域に、

一人だけ専門医っぽい医者がいるのを見つけた。

それは小さな文字で控えめに書かれたものだったけれど、

眼科医だけど、眼球の医者ではないぞ。

 

そして、ようやくまともに治療してもらえる

眼科医に診察していただくことができた。

 

この医者は、バセドウ眼症の専門医ではないが、

近接領域であるため、

バセドウ眼症についてもよく知っていた。

また、非常に勉強家であるため、

バセドウ眼症の専門医との強いネットワークを

持っていた。

この医者が、眼科の主治医となった。

 

まずは、私に局所治療を施してくれた。

当時、何やら問題があって、

使用するのに制限のある薬だったが、

医者は穏やかに「ちょっと廊下でお待ちください」といって

私を診察室から出したあと、

何やらどこかと電話で交渉し始めた。

「・・・それなら、〇〇すればいいでしょう、

必要なんです!!」

と、かなりの語調。

 

しばしして、

再度診察室に呼ばれると、

医師は何事もなかったかのように

「じゃ、始めましょう」といって、

私に治療を始めた。

 

なんだかわからないけど、

病気が治らなくてもいいや、

この医者なら信頼しよう。

それだけでいい。

 

そんな気持ちになった。

 

治療と言うのは、

ケナコルトというステロイド剤を

眼の裏に注射するというもの。

 

この局所治療では、いったん症状が軽快した。

ステロイド、すごいぞ。

 

 

しかし、結局また症状が出てきた。

ここに至って、

大人も、子どもも、仕事で付き合いのある業者も、

私の顔を見て、「目が大きい!」

「その顔、どうしたの!?」と

遠慮なく驚きの声をあげていた。

まぶたは大きく見開いて、

眼球は突出し、

目の周りは真っ赤に腫れ、

何の病気なの!?と

見たものみなが訝しく思った。

 

これは入院してステロイドの全身治療しなければなりませんね、

ということになった。

 

 そこで、眼科の主治医が、

バセドウ眼症の専門医を紹介してくれた。

その専門医がいるところは、私の住んでいる地域からはひどく遠かった。

隣県などと言うレベルではなく、

他の地方だった。

でも、行くしかないことは、わかっていた。

私自身も、専門医が近くにはいないことを

痛感していたから。

 

私は夜間高速バスに乗って、

紹介状を持って受診した。

 

そこには確かに、専門医が居て、

そして私のような患者が陥りがちな、

専門医にたどりつけないパターンをよく知っていた。

でも、自宅からはるかかなたにあるその病院で

入院治療を受けるのは大変でしょう、と言って、

私に、うちから近いところにある大学病院で

治療を受けてください、

ただし、治療のスケジュールはきっちり決めて、

指定しておきますから、と言った。

 

なるほど。

うちから近い大学病院の医者は

多少気分が悪いかもしれないが、

そうしてもらうのがいちばんよさそうだった。

 

ちなみに、このころ飲んでいた薬は

睡眠薬ぐらいで、

私は精神科は受診していなかった。

 

この時の私は、バセドウ眼症というもぐらを

叩く作業にかかっていたわけ。

 

 

 

バセドウ病からバセドウ眼症へ

バセドウ病になって、

半年ほど過ぎたころ、

眼に違和感を感じた。

 

まぶしい・痛い・貼れた感じなどなど。

ああ、バセドウ眼症ね、と思った。

眼球突出といえばわかりやすいと思うが、

眼の周りの組織に炎症が起きて、

あれこれ不具合が出てしまうもの。

突出するのは、組織が炎症を起こして腫れ、

腫れた組織が眼窩の中に入りきらず、

外に飛び出すから起こる現象。

 

薬の服薬で、バセドウ病の血液検査の結果は

まあ良好になったのだが、

今度は眼に来た。

しかしもぐらたたきは続いているわけだ。

 

私は痛みは耐えるしかないと考え、

片手で保冷剤を片方のまぶたに当てながら

片手でパソコンを打って仕事をしていた。

両目が痛いから、時々左右の手をかえるわけである。

 

しかし、目の症状がどんどん進み、

痛みは激しくなり、

物が二重に見えたりし始めた。

さすがにまずそうだと思い、

バセドウ病でかかっている内科医に相談したが、

「仕方ないでしょう、バセドウ病だから」

とのこと。

 

本当にそうなのか?